図書出版 川島書店
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小社の本の書評を紹介します。

『教育学研究』第72巻 第4号 2005年12月号 より
小川博久(聖徳大学)

「保育実践研究の方法」
-障害のある子どもの保育に学ぶ-
堀 智晴 著

A5判 212頁 2,625円(税込) ISBN4-7610-0770-2

カバー  本書は、長きにわたって「障害児」保育の実践と教育に携わってきたという立場から、書き上げた学位論文に基づき、加筆修正して出版されたものである。それゆえ、「保育行為がはたして保育たりえているのかその根拠を明らかにする領域」としての保育実践学に関する著作であり、「保育実践研究の理論化の試み」である。この著書の根底にある立場は「保育実践から保育実践へ」である。そして保育実践の基本を障害児教育の実践に置いているのである。
 第一章では、保育実践を「保育施設で行われる、保育者による子どもへの働きかけの総体」とし、さらに、「保育実践研究を研究対象として分析・考察し、よりよき保育実践を行うための知見を得ること」と定義し、後者は、保育実践を記録し、その記録をもとに実践について分析・考察し、実践の意義と問題点を明らかにし、今後の実践への知見を提起するという三段階で行われるとする。この研究の意義と必要性については、保育実践は日常的であり、子どもは日々変化している。保育者はこの変化と新たな気持ちで出会う必要がある。 保育実践研究は日々の実践を振り返り反省することを通して、具体的に子どもを理解し、その理解の根拠を問い直すことだという。著者は保育実践研究の必要性をこのように説きつつ、幼児は、自分のことを意識していないときが多く、子どもの心は動いて形を変えていくという二つの理由から、研究の困難さをも指摘する。そして津守真氏の研究方法に着目し、保育実践研究に必要な「幼児理解」のための二点「保育実践における共感」と「共有する世界の探究」をあげる。前者には、「視覚・聴覚による知覚理解」と「触運動感覚とイメージによる共感的理解」の二つがあり、探究を形成するのは、保育行為的反省と思考的反省であり、実践後に子どもの世界と自分の世界を探究し、子どもの原型、人間の原型について省察することだという。津守氏がこうした考えに基づいて、愛育養護学校で行ってきた実践と発達と教育についての研究に着目する。堀がここから学ぶのは、障害をもつ子どもの教育の普遍性ということと、子どもが成長発達の過程で、子ども自身の形成において相遇する存在の危機、能動性の危機、相互性の危機、自我の危機を乗り越えることで成長するのだという信念である。著者は津守が研究者であるとともに、実践者にもなって実践研究を深化させた点を重視している。
 第二章では「保育実践研究の理論化の試み」として自らの研究の理論化を試みている。
 まず、保育実践を①子ども理解②子どもへの願い③手だての相互関係としてとらえる、この中で最も重要なのが「子ども理解」である。しかし、保育者の「子ども理解」は常に完全ではありえないがゆえに「仮の『子ども理解』」であり、「子どもへの願い」と「子どもへの手だて」と連動させて深化すべきものだという。「子ども理解」は子どもとふれあう時の経過によって「なぜ、そのようなことをするのか」という動機や理由を推測できるようになり深まるのである。それは「今の行動の理解」から「いくつかの行動の理解」を経て「生き方の理解」に至ることだと云いかえられる。とはいえ、この理解は保育者の価値観に基づいた評価であって、理解の仕方は一つではない。それゆえ、ある理解から、「子どもへの願い」や「子どもへの手だて」の道筋が生まれると共に別の道筋も生まれてくる。この「子ども理解」は最終的には、子ども一般ではなく、目の前の「この子理解」に至るべきである。そのことは障害児においても同じである。それゆえ障害児教育で目ざされる自立も自己決定(自分の人生は自分で決める)なのである。だから障害児をマイナスイメージでとらえるのではなく、同時代を共に生きる仲間の一人として、つまり「この子」としてとらえるのである。障害者との出会いを通して、「障害児」にまつわる固い子ども観を保育者自身が壊すことで、「この子」が見えてくるのだということを灰谷健次郎の文を通して明言する。
 さらに「子どもへの願い」については、「子ども本人の願い」を中心に、「親の願い」「保育所の願い」等、多層の願いと保育実践はかかわっており、その願いはそれに相応する様々な「手だて」と結びついている。著者はこの「願いの構造」と「手だての構造」を明らかにし、マクロな視点とミクロな視点を結びつける必要を強調する。その結果として著者の「手だて」における強調点は、「障害児」を含めて、子どもたちの集団から作り出す場の雰囲気やその関係に着目し、子どもの関係図(仮の関係図)を書き、この変化する関係を通しての子どもの「育ち合い」を強調し、それが障害児の存在があることを通してこそ成立することを主張する。
 第三章は、著者が長年つきあってきた堺市と箕面市における障害児保育の実践研究の歴史を紹介し、この中で、第二章で紹介された著者の保育実践研究の理論の視点から、障害児保育の実践研究の歩みを跡づけている。この中で、実践研究における「実践と理論」のサイクルが保育者同士、研究者との共同で行われるという研究体制の確立によって達成されたことが強調されている。そして最後に、金沢の「ひまわり教室」における徳田茂の実践理論を紹介し、著者の実践研究に対する姿勢が「保育者が変わる」関係、「できなさを認める」 関係、保育者のほうが子どもに「してもらう関係」にあるべきこと、「知行(障害児の名)を知行として理解する。子どもを「大切な一人の存在」として接すること、自分の生き方を振り返ることという徳田の考えに共鳴していることを明らかにしている。
 第四章「インクルージョンと子ども理解」では、インテグレーションの立場から、障害児を含めた新たな保育・教育のあり方を創造できるとを主張する。「障害児」を「特別な二一ズをもつ子ども」と見なし、こめ子を含めたすべての幼児を対象とした教育の理念が求められている。そのためには、「障害児」としてではなく、「特別の二一ズを持つ子」として、また「特別な二一ズ」を「その子なりの独自な二一ズを持つ」としてとらえる。そしてその「二一ズ」は子ども自身の自己決定によるべきだとする。それは結局、「子どもの生き方」をさぐることであり、子どもの行動をつないで「生き方」を仮説的にさぐるべきであるとする。著者の求めるこうした保育は最終的には子ども同士の仲間関係をどう育てるかにあると結論づけている。
 本書の読後感としてまず冒頭に浮かぶのは、著者の保育実践、特に障害児保育と研究に長年携わってきた姿勢と熱き思いである。評者もまた30年余、現場の実践にかかわってきた者として共感する点が大きい。専門職と云われつつも社会的評価、経済的利益も大きくない保育という営みは、その日常性のゆえに、惰性化する危険も多い。著者も云うように、それを反省し、克服するために実践研究はあるとはいえ、多くの現場に遭遇してみると、そうした知的な省察を最初から拒絶する現場も少なくない。そうした現場と対話し、よりよい実践を導くことへと研究者が関与するためには、啓蒙者であることを止めて、現場の実践者との問に通底する共感や子どもに向けるまなざしを見つけなければならない。つまり臨床の原点の発見である。本書は、津守や徳田の実践と思想に触発されながら、自らの実践研究の軌跡を自らの実践研究の哲学として書き上げたものといえる。教育学研究がポスト・モダンの状況の中で、システム化された教育体制やその歴史的変遷によって、教育現実は規定されるがゆえに、教育における子どもの主体性の擁護や児童中心主義的思想は、自らの実践の限界を認識しない幻想であるばかりか、現実を隠蔽する働きしかしないとする批判が強い。この視点が社会を俯瞰するさしづめ猛禽類のまなざしとすれば、著者の視点は触覚で地表を這い回る小動物の生き方かもしれない。
 しかし、それであればこそ、著者の実践研究を理論化しようとする志は強い。現場の保育者や「障害の子ども」との出会いを通して、「一般的な子ども」理解や「障害児」への常識的理解を乗り越えて、「この子」理解にたどりつこうとする。「この子」の行動の一つ一つは前者の見方からすれば、その多くが、世の中の常識を守らない、逸脱行動と映り、否定的見解に至らざるをえない。それを乗り越えることは、大人自身の自己変革を迫るものにならざるを得ないのである。長年にわたって形成してきた大人の常識への省察と変革を迫る視点なのである。ここには実践にかかわってきた著者の求道者的な研究への視点がある。
 こうした点に共感しつつも、評者として批判すべき点を述べようと思う。それは、「子ども理解」と「子どもへの願い」と「手だて」の三つの構造と関係づけを多層的に捉えたという点は肯定できるのであるが、それらの関係は、実践に対して予定調和的ではありえない。常に葛藤をかかえているということである。たとえば、「子ども自身の願い」と「親の願い」との葛藤は今子育てにおいて著しい。この現実を看過するわけにはいかない。また「この子」理解は子どもの仲間関係の形成と結びつくとされているが、現実に保育者は制度化された「集団」を扱わざるを得ない立場にある。むしろ必要なのは、保育者が「集団」としての子どもへの対処の仕方から子どもたち自身の集団の形成をはかることへと変貌させ、さらに「この子」 理解に達する道の解明なのである。

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